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この歌は一つ前の 782番の「今はとて 我が身時雨に ふりぬれば」という小野小町の歌への返しであり、あなたを思うこの心が木の葉なら、風のままに散り乱れることもあるだろうが、という歌。
「心の木の葉に」の部分は「心木の葉に」と「の」が入らないかたちの伝本も多い。 "あらばこそ" は、740番の歌の「ゆふつけ鳥に あらばこそ 君がゆききを なくなくも見め」と同じ 「未然形+ばこそ」で、反語を表している。ただし、259番の「色いろことに 置けばこそ 山の木の葉の ちぐさなるらめ」や、298番の「たむくる神の あればこそ 秋の木の葉の ぬさと散るらめ」の 「置け」や 「あれ」のように 「已然形+ばこそ」であるものは、反語ではなく単に 「こそ」が仮定を強調しているものである。
元の小町の歌に「言の葉さへに うつろひにけり」とある 「うつろふ」はどちらかというと色が変る・色が褪せるという感じであるが、この貞樹の歌では 「うつろふ」という言葉が 「散る」という意味でも使われることを利用して "散る" という言葉で受けている。 「うつろふ」という言葉を使った歌の一覧については 45番の歌のページを参照。また、元の歌の「我が身時雨に ふりぬれば」という部分を「風で木の葉が降る」という譬えで、やんわり返しているようにも見える。言葉遣いは凡庸だが包容力を感じさせる歌である。
次の恋歌四にある素性法師が女性の立場に立って詠んだ歌は、この小町と貞樹の歌を元にして作られたもののようにも思える。
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