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       題しらず 小野小町  
782   
   今はとて  我が身時雨に  ふりぬれば  言の葉さへに  うつろひにけり
          
        今はもう二人の仲は終わり、とこの身は過去の女になってしまったので、あなたの言葉さえ前とは変ってしまったのですね、という歌。この歌には 783番の小野貞樹の「人を思ふ 心の木の葉に 
あらばこそ」という返しが付いている。

  「時雨が降る−この身が経る」を掛けて、"言の葉" を時雨にあって色の変わる 「木の葉」に掛けている。 「時雨」を詠った歌の一覧は 88番の歌のページを参照。 似たような譬えの歌として、次の二つの読人知らずの歌を並べて見たい。

 
688   
   思ふてふ  言の葉のみや    秋をへて    色もかはらぬ   ものにはあるらむ
     
820   
   時雨つつ   もみづるよりも  言の葉の   心の秋に  あふぞわびしき
     
        「言の葉」という言葉を使った歌の一覧は、上記の 688番の歌のページを、「さへに」という言葉を使った歌の一覧は 280番の歌のページを、「うつろふ」という言葉を使った歌の一覧については 45番の歌のページを参照。

  ただ、この小町の歌の場合、"言の葉さへに うつろひにけり" とは、漠然としすぎていて何を言いたいのかよくわからない。相手の言葉が冷たくなった、と見るのが自然だろうが、「二人がかつて取り交わした(約束の)言葉」ということのようでもある。 「さへ」という言葉についても、「逢いに来ないという態度に加えて」とことであるようにも見える。このあたりは貞樹の返しの歌を見ても判断がつかず、曖昧なところである。

  「今はとて」ではじまる歌には、次の源宗于(むねゆき)の歌などがあり、その一覧については 
182番の歌のページを参照。

 
182   
   今はとて   別るる時は  天の河  渡らぬ先に  袖ぞひちぬる
     
        また、この 「今はとて」という言葉は、割と取り替えがきく言葉で、例えば同じ「別るる」と続く次の兼芸法師の歌の初句を 「今はとて」と差し替えても、内容は別として、調べとしては違和感がないのが面白い。

 
396   
   あかずして   別るる涙  滝にそふ  水まさるとや  しもは見るらむ
     
         "ふりぬれば" の 「ふり」は 「古る」の連用形。 「古る」を使った歌の一覧については 248番の歌のページを参照。

 
( 2001/10/11 )   
(改 2004/03/09 )   
 
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