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       題しらず 読人知らず  
867   
   紫の  ひともとゆゑに  武蔵野の  草はみながら  あはれとぞ見る
          
     
  • 紫 ・・・ ムラサキグサ (紫草)
  • みながら ・・・ すべて (=皆ながら)
  • あはれ ・・・ いとおしい
  
紫草のその一本のために、武蔵野の草はすべていとおしいものと見える、という歌。紫草はその根を紫色を出すための染料として使われた。夏に白い小さな花をつける。この歌では紫染めの原料としての特別の価値を "あはれ" という感情の元としているようである。

  この歌は、紫草を譬えとして使ったもので、一つの人あるいは一つの物がいとおしいために、それに関係するものまで愛情を感じる、ということである。譬え自体は具体的だが、この歌が元々何を譬えたものなのかは不明である。後にこの歌の指す内容が 「紫のゆかり」という一言に縮められて使われることとなった。 「ゆかり(縁)」は 「関係・縁故・血縁」という意味である。 「紫」を詠った歌の一覧は 652番の歌のページを参照。

  873番の河原左大臣(=源融)の「さらばなべてや あはれと思はむ」という歌は、この歌と内容がほとんど同じでありながら、「五節の舞の翌日、かんざしの玉が落ちているのを見て詠んだ」という詞書がある分わかりやすい。ただ、その歌にしても詞書による説明がなければ、いきなり 「白玉」と言われても、それが 「かむざしの玉」であるとはわからない。この 「紫」の歌や 863番の 「櫂のしづく」の歌は、その 「かむざしの玉」にあたる情報が失われた状態であると考えることができる。

  「あはれ」という言葉を使った歌の一覧は 939番の歌のページを、「とぞ見る」という表現を使った歌の一覧は 301番の歌のページを参照。

 
( 2001/12/04 )   
(改 2004/03/10 )   
 
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