吉野の滝を見てよめる | 承均法師 | |||
924 |
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誰のために引いてさらしている布なのか、長い間見ているが取る人もいない、という歌。 ここでは詞書に 「吉野の滝」とあるが、滝を白い布を引いてさらしたようだという表現は、直前の 922番と 923番の詞書にある 「布引の滝」から引き継がれて、この歌から四首が滝を布と見立てる歌が続く。例えば、一つ置いた次の伊勢の歌は吉野の竜門寺の近くの滝について、この歌と同じく 「布をさらす」ということを詠っており、 927番の橘長盛(たちばなのながもり)の 「主なくて さらせる布を 七夕に」という歌で再び 「布引の滝」に戻るという趣向である。 |
926 |
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「〜なれや」という言葉を使った歌の一覧は 225番の歌のページを参照。滝が長い間あるということを 「世をへて」という言葉を使って表現している点で、この歌は 929番の「世をへて落つる 水にぞありける」という躬恒の歌を思い出させる。 「経(ふ)」という言葉が使われている歌の一覧は 596番の歌のページを参照。 |
( 2001/11/12 ) (改 2004/02/09 ) |
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