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       これさだのみこの家の歌合せによめる 文屋朝康  
225   
   秋の野に  置く白露は  玉なれや  つらぬきかくる  くもの糸すぢ
          
     
  • つらぬきかくる ・・・ 貫いて掛けている
  文屋朝康は仮名序・真名序で取り上げられている文屋康秀の子。

  
秋の野に置く白露は珠であろうか、蜘蛛の糸がそれを貫いて掛けている、という歌。 "つらぬきかくる" は、貫いて(草などの間を)渡している、という感じか。 27番には柳が糸を「よりかけて」露を珠と抜くという遍照の歌もある。 「かく」という言葉を使った歌の一覧については 483番の歌のページを参照。

  この歌は 「白露=玉」の譬えを 「蜘蛛の糸」で再び写実に戻しているところがポイントである。 
「白露」も 「蜘蛛の糸」も透明なイメージがあるので、その背景である "秋の野" をどう見るかによって印象が変わってくる。古今和歌集の流れで言えば、秋歌上でこの歌の前には秋萩の歌群があり、「萩+鹿」から 「萩+露」と移り、この歌の直前では次のような歌になっている。

 
224   
   萩が花   散るらむ小野の  露霜に   濡れてをゆかむ  小夜はふくとも
     
        そしてこの朝康の歌の後からは遍照の次の歌で始まる女郎花の歌群がはじまるのである。

 
226   
   名にめでて  折れるばかりぞ  女郎花   我おちにきと  人にかたるな
     
        つまり、この歌はギアチェンジの前の一瞬のニュートラル状態のような位置に置かれており、そのため "秋の野" に枯草を見るか、女郎花の咲くまだ緑の葉を見るかは、白露と蜘蛛の糸の透明なベールの彼方の色があってないような不思議な空間に押しやられ、何故かその水滴の冷たさだけが指先に秋を感じさせるように演出されていることがわかる。

  また、この歌の "玉なれや" という部分は「玉でしょか」と幼く訳してみたい気もする。この 「なれや」は 「なれ+や」で、断定の助動詞「なり」の已然形+疑問の助詞「や」。 「〜なのか(疑問)/〜なのか(反語)/〜だなあ(詠嘆)」という意味で使われる( 
「例解 古語辞典 第三版」 (1993 三省堂 ISBN4-385-13327-1) )。ただし、後ろに 「らむ」など推量の言葉がある場合は、「〜だからであろうか」と原因を求める疑問のかたちと見た方が自然になる場合もある。 「なれや」を使った歌の一覧は次の通り。

 
     
225番    置く白露は  玉なれや  文屋朝康
248番    人はふりにし  宿なれや  僧正遍照
329番    人もかよはぬ  道なれや  凡河内躬恒
507番    恋ふともあはむ  ものなれや  読人知らず
509番    釣りする海人の  うけなれや  読人知らず
538番    上はしげれる  淵なれや  読人知らず
560番    み山隠れの  草なれや  小野美材
591番    上はこほれる  我なれや  宗岳大頼
627番    風に先立つ  浪なれや  読人知らず
671番    浪うつ岸の  松なれや  読人知らず
753番    なぎたる朝の  我なれや  紀友則
843番    君が袂は  雲なれや  壬生忠岑
924番    引きてさらせる  布なれや  承均法師
930番    心の内の  滝なれや  三条町
931番    うちはへて  世は春なれや  紀貫之
984番    あはれ幾世の  宿なれや  読人知らず
1008番    ただ名のるべき  花の名なれや  読人知らず
1045番    我が身は春の  駒なれや  読人知らず


 
        これを見ると 1008番の旋頭歌を除くと、一つの例外( 931番の貫之の歌)を除き三句目で使われている。使い易い反面、平凡になり易いということか。ちなみに、古今和歌集以外で言えば、貫之にも「風ふけば とはに浪こす 磯なれや わが衣手の 乾く時なき」(新古今和歌集巻十一1040)など、三句目に 「なれや」を使った歌もあるようである。

 
( 2001/08/09 )   
(改 2004/01/22 )   
 
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