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世の中に一切、桜というものがなかったら、春をのどかな気持ちで過ごせるだろうに、という歌。 "のどけからまし"は「のどけから+まし」で、これと同じ、形容詞の未然形+反実仮想の助動詞「まし」を使った歌の一覧については 712番の歌のページを参照。
「渚の院」は淀川の近くにあって、交野での狩の拠点として使われた。業平が惟喬親王のお供としてそこにいる様子は「伊勢物語」の第八十二段に描かれている。
詞書ではその色をつけていないが、「伊勢物語」にあるように、花見の席でのたわむれから出た歌であろう。つまり発生時には特に堅苦しい意味が含まれていたとは思えない。ただ、皆が楽しんでいる中でこのような歌が浮かぶ心の背景には、自分とは距離を置いて相対して立つ 「桜」を見る醒めた目がある。それが象徴化された源流をたどれば、そこには心惑わせるものとして女性の姿や、物質的・社会的な豊かさを誇る藤原氏の栄雅が見えてもおかしくはない。無意識とか潜在意識というとありきたりだが、ただの花見での皮肉なこの歌は、業平自身が思ってもいなかったかたちで、親しい惟喬親王への 「呪」となってしまったのではないかとも考えられる。
惟喬親王が伝えられるように聡明な人間であれば、いかに父・文徳天皇の意思があっても、自分が天皇になる目がないことはわかっていたはずで、それがわかっていながら第一皇子である自分の立場との矛盾に悩むことが多かったであろう。簡単に言えば、あきらめるか、あきらめないか、その狭間で揺れ動く親王に対し、側にいる業平の態度は当然 「あきらめない」方のポジションであったはずである。しかし業平が自らに対して放った歌は、近くにいた、免疫力の少ない、つまり内在する自分の歌の力で外からの歌の影響を跳ね返すことのできない親王へ 「感染」したと見ることもできる。満開の桜を前にその存在を言葉で消す業平の歌は、惟喬親王にとって次の読人知らずの歌と同等に響いたのではないだろうか。
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