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- 苔の袂 ・・・ 僧衣のこと
- 乾きだにせよ ・・・ せめて乾くことを知れ
詞書は 「仁明天皇の時代、蔵人頭として夜昼をわかず仕えていたが、諒闇になったので、全く世に混じらず、比叡の山にのぼり僧となった。その翌年、人々は喪に服していた地味な衣を脱ぎ、ある者は新しく位を賜ったりなどして、喪が明けたことを喜んでいると聞いて詠んだ」歌ということ。
「諒闇(りょうあん)」とは天皇の父母が亡くなった時、世の中が一年間、喪に服すること。仁明天皇の崩御は 850年三月二十一日で、没年四十一歳。この時、遍照は三十五歳でその三月中に出家したと言われている。次の天皇は仁明天皇の第一皇子であった文徳天皇で、その即位は 850年四月十七日。文徳天皇は惟喬親王の父である。
歌の意味は、人は皆、花のように美しい衣に着替えたという、この私の苔の袂よ、せめて乾いて欲しい、ということ。 「苔の袂」とは、ここでは自分の着ている僧衣の袂の譬えで、それが未だに思い出すたびに涙で濡れるということを言っている。 静かな悲しみの中にも 「花の衣/苔の袂」の対に艶がある。 "苔の袂よ 乾きだにせよ" という言い放ち方に妙味がある。その命令形を見ると、前の "なりぬなり" の 「なり」は断定のようにも感じられるが、「花の衣になったようだ」という伝聞の意味で、詞書の最後の 「〜を聞きてよめる」がそれに対応する。 「連用形+だに」というかたちを使った歌としては他に、242番の「今よりは 植ゑてだに見じ 花薄 」という平貞文の歌がある。 「だに」という言葉を使った歌の一覧は 48番の歌のページを参照。
「花の衣」という言葉からは、遍照の子である素性法師の 1012番の「山吹の 花色衣 主や誰」という誹諧歌が思い出される。
僧正遍照( "遍昭" と書かれることが多い)は、仮名序・真名序でいわゆる六歌仙の一人として上げられているが、出家したのはこの歌の詞書の通り、深草のみかど=仁明天皇(=嵯峨天皇の第二皇子)が亡くなった時である。その前の名前は良岑宗貞(よしみねのむねさだ)。父の安世は勅撰漢詩文集 「経国集」(827年)の編纂に携わった。
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