法皇、西川におはしましたりける日、猿山のかひに叫ぶといふことを題にてよませたまうける | 凡河内躬恒 | |||
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907年と言えば、仮名序・真名序に記載されている、古今和歌集が作成されたといわれる年(905年四月)の二年後にあたり、このズレは、少なくとも 905年にはまだ現在の古今和歌集のかたちが完結していなかったことを示しているが、逆に 907年のこの大井川行幸(御幸)の時点では、歌人たちの頭の中にはすでに古今和歌集という存在が意識されていただろう、ということもわかる。 わびしそうに猿よ、鳴くな、今日こそは 「かい」のある日ではないか、という歌。躬恒のこの歌は、 "わびしら"と "ましら" と音を重ね、「山の峡(かい)」と 「〜しがいがある」という意味の 「効(かい)」を掛けて、「猿叫峡」という漢詩的な題からくる寂寥感を、先頭の "わびしら" で押さえながら、最後でうまく 「御幸」の喜びを入れて全体としては泣き笑いのような感じに仕立てている。 "わびしらに" という言葉は、451番の在原滋春の「にがたけ」の物名の歌でも「ものわびしらに 鳴く野辺の虫」と使われている。 「わぶ」という言葉を使った歌については 937番の歌のページを参照。また、この歌の "今日にやはあらぬ" という結びを見ると、846番の文屋康秀の「照る日の暮れし 今日にやはあらぬ」という哀傷歌のパロディのようにも思われる。 「やは」を使った歌の一覧は 106番の歌のページを参照。 なお、この大井川行幸の際の歌会では、詩会の流れから九つの題があった。「古今著聞集」に残る貫之の大井川行幸和歌の仮名序と付け合せて、それを列挙すると次のようになる。(三文字の漢文題は「論集 和歌とは何か」 和歌文学会編 笠間書院 1984 に収録の 後藤昭雄 「漢詩文と和歌−延喜七年大井川御幸詩について−」 による) |
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ではこれらの題から生まれた歌はどのようなものであったのか。つまりどのような母体から躬恒と貫之の歌は古今和歌集に採取されたのか。私家集などで現在に残っているものを上げてみる。 |
秋の水に浮ぶ |
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秋山のぞむ |
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紅葉落つ |
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菊の花残れり |
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鶴洲に立てり |
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猿峡に叫ぶ |
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旅の雁行く |
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鴎人に慣れたり |
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江の松老いたり |
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これらの歌群の中で、この躬恒の 「わびしら」の歌を見ると、 "今日にやはあらぬ" という言葉の雰囲気がわかるような気がする。 躬恒の歌は、何らかの形ですべての題についての歌が残っているのに対し、貫之の歌は、自ら許せるものが少なかったのか、九つの題のうち三つしか歌が残っていない。古今和歌集および後世の和歌集に拾われている数からすると、貫之は三首中三つ、躬恒は十七首中二つ、忠岑は八首中ゼロである。一方、坂上是則の歌は古今和歌集には採られていないものの、九首中七つが後世の和歌集に採られており、その点では忠岑の面目はまるつぶれである。 ただし、忠岑の歌として、拾遺和歌集・巻三212に「大井に紅葉の流るゝを見はべりて」という詞書のついた「いろいろの 木の葉流るゝ 大井河 しもは桂の紅葉とや見ん」という歌があり、それは「紅葉落」の題の「いろいろの 木の葉落ち積む 山里は」という歌と出だしの部分が同じである。 また、「忠岑集」には貫之の序とは別に、この大井川行幸の際の歌に対する忠岑の序とされるものが存在し、その中に「声ありて聞こゆる題は、九つのその心おなじからず。みなおのおの数かぞへて」というくだりがある。単なる修辞表現かもしれないが、「みなおのおの数かぞへて」とは、その場で文字数を指折り数えて考えているような情景が思い浮かばれる。 もう一人の古今和歌集の撰者である友則は、この時すでに亡くなっていたのか、これらの中に名前を連ねていないのが寂しいところである。 ちなみにこの躬恒の 「わびしら」の歌について、賀茂真淵は「古今和歌集打聴」の中で、「...さて此歌を何とて俳諧に入れたるにや心詞ともにたはれたる所なく実にめでたき歌也是ほどの歌は此集中にも多く侍らざるものを」と誉めている。おそらく真淵はこの歌の中に躬恒の才のきらめきを見たのであろう。 |
( 2001/10/22 ) (改 2004/03/16 ) |
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