藤原の敏行の朝臣の、業平の朝臣の家なりける女をあひ知りてふみつかはせりけることばに、いままうでく、あめの降りけるをなむ見わづらひ侍る、といへりけるを聞きて、かの女にかはりてよめりける | 在原業平 | |||
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歌の内容は、いろいろと、あなたが私のことを思っているのかそうでないのかと悩んでも、あなたに直接聞くわけにもいかないので、この雨にきけば、ますます降って 「お前は思われていない」と知らせているようです、ということ。わかりづらい歌である。 現在に伝わる伊勢物語の第一〇七段では、藤原敏行がよこした手紙の内容が「雨の降りぬべきになむ見わづらひ侍る。身に幸ひあらば、この雨は振らじ。」となっている。つまり縁起が悪いので行きたくないな、雨が上がったら行ってもいいが、というニュアンスである。また、業平がこの歌で、止むどころかますます強く降るだろう、と答えたところ、「蓑も笠も取りあへで、しとどに濡れてまどひ来にけり。」という敏行の様子を書いている。 同じ段には次の二つの歌が前に置かれていて、上が敏行の歌、下がやはり女の代作の業平の歌だが、そこでも返しをもらった敏行は、「めでてまどひにけり。」とされている。 「業平に振り回される敏行」という図である。 |
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また、このやりとりは「古今和歌集全評釈(中)」 (1998 片桐洋一 講談社 ISBN4-06-205980-0) でも述べられているように、次の安倍清行と小野小町の贈答歌と同じパターンである。 |
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さて、歌の方は、はじめに "かずかずに" という言葉があるが、これがまずわかりにくい。同じ 「かずかずに」という言葉ではじまる歌としては、次の読人知らずの哀傷歌がある。 |
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これは 「数多く、繰り返し」という感じで意味が通るが、この業平の歌の方はそれでは少し硬いので 「色々と」という感じであろうか。 "とひがたみ" の「み」は 50番の歌の 「山高み」などの 「み」と同じで理由を表す接尾語で、この 「とひがたみ」の主語は 「女」だとわかるが、「思ひ思はず」の主語は微妙である。 「思ひ思はず/とひがたみ」と区切れるのであれば、女が相手を 「思ひ思はず」ということで、自分の心をどこにも 「とひがたみ」ということになり、やや不自然である。そこで 「思ひ思はず」を 「とひがたみ」の目的語として、女が 「思ひ思はず」と相手に問い難いので、と解釈されるのが一般的である。つまり 「思ひ思はず」の主語は相手(=敏行)。 "身を知る雨" という言葉もわかりづらい。これは 「この私の身の上を知っている」雨、ということではなく、「自分がそれによって身の状態を知る」雨と一般的に解釈されている。つまり 700番の歌にある 「心のうら」の 「うら」と同じで、占いという感じである。雨が上がればラッキー、雨が止まなければアンラッキーということで、ここにおいて上記の伊勢物語の中で敏行が言っている 「身に幸ひあらば、この雨は振らじ。」という考えを、業平が掬い取って切り返している様子がわかる。 |
( 2001/10/17 ) (改 2004/01/09 ) |
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