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       題しらず 坂上是則  
826   
   あふことを  長柄の橋の  ながらへて  恋ひ渡る間に  年ぞへにける
          
        逢うことを伸ばし伸ばしにして、ただ恋しいと思っている間に年月が過ぎてしまった、という歌。

  「長柄−ながらえる」 「橋−渡る」としているのに加えて、長柄の橋が長い年月を経た古いものであることに沿わせながら、「ながらふ」の本来の意味である「生きながらえる」ということを、最後の "年ぞへにける" で掬い上げている歌である。

  歌の内容からは 180番の躬恒の「七夕に かしつる糸の うちはへて」という歌が思い出される。 「恋ひ渡る」という表現のある歌の一覧は、その180番の歌のページを参照。 "年ぞへにける" の「経(ふ)」という言葉が使われている歌の一覧は 596番の歌のページを参照。

  1003番の忠岑の長歌にも「長柄の橋の ながらへて」とあり、「長柄(ながら)」に 「永らふ」(=生きながらえる)を合わせている。 「永らふ」は 347番の仁和帝(=光孝天皇)の「かくしつつ とにもかくにも ながらへて」という歌に出てくるが、その他にも、続く 827番の「流れてとだに たのまれぬ身は」という歌のように 「流る」と掛けられて使われることもある。他に 「長柄の橋」が詠われている歌には、次の読人知らずの歌と伊勢の歌がある。

 
890   
    世の中に  ふりぬるものは  津の国の  長柄の橋 と  我となりけり
     
1051   
    難波なる  長柄の橋 も  つくるなり  今は我が身を  何にたとへむ
     
        「長柄の橋」は淀川に掛けられていた橋で、「津の国」(=摂津の国)の 「難波」にあったので、上記の二つの歌のように詠われている。現在の「長柄橋」は、淀川を挟んで大阪府大阪市東淀川区と北区を繋いでいる。

  「津の国」と「難波」が一緒に使われている歌には、604番の貫之の「津の国の 難波の葦の 芽もはるに」という歌と、696番の「津の国の なには思はず 山しろの」という読人知らずの歌がある。

 
( 2001/11/19 )   
(改 2004/02/09 )   
 
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