Top  > 古今和歌集の部屋  > 巻二

       亭子院歌合せのうた 紀貫之  
89   
   桜花  散りぬる風の  なごりには  水なき空に  浪ぞたちける
          
     
  • なごり ・・・ 風が止んだ後もしばらく波が揺れていること (余波)
  
地上では風が吹いて桜が散った、それで終わり、けれど、空ではその風がおさまった後も花びらが浪のように漂っている、という歌。 「浪の花」ということを詠った歌の一覧は 250番の歌のページを参照。ここではそれを空に上げて、「花の浪」としている。

  詞書にある「亭子院の歌合せ」は913年三月に宇多法皇が亭子院で催したもの。
「新編  国歌大観  第五巻 」 (1987 角川書店 ISBN 4-04-020152-3 C3592) に収められている「亭子院歌合」によると、この歌は 「左」として、次の 「右」の歌に付け合わされ、かつこの 「右」の歌に負けている。

    水底に  春やくるらむ  みよしのの  吉野の川に  かはづなくなり

  歌の横には 「みぎかつ、うちの御うたいかでかはまけむ、となんのたまひける」とある。 「うちの御(=内の御)」とは醍醐天皇で、誰がのたまわったのかはっきりしないが 「右が勝って当然、天皇の歌がどうして負けるか」ということであろう。

  それでも伊勢の作と言われる 「亭子院歌合」の前書きでは、全体の勝敗について 「右はかちたれども、内のおほんうたふたつをかちにておきたれば、右一まけたり」と書かれている。つまり、この 「右」の歌を含めて二つの醍醐天皇の歌は一応勝ちにしたけれども、それを差し引くと右が一つ負けだ、ということである。この勝ち負けの数は現存の「亭子院歌合」とは合わず、もう一つの 「御」と記された歌は「左方」にあるので、どうも整合性に難があるが、「右方」がこの貫之の歌に対して、天皇の歌というワイルド・カードを切ってきたと見ると面白いかもしれない。

  ちなみに「亭子院歌合」では二つの歌の作者名にどちらも 「貫之」と記されているが、この「右」の歌は「続後撰和歌集」の150番に「亭子院歌合に」という詞書で醍醐天皇の歌として採られている。

  また、この歌合せは913年で古今和歌集の仮名序・真名序にある古今和歌集の成立年、905年より先である。同じ歌合せから採られた 68番の伊勢の歌は春歌上の最後に、134番の凡河内躬恒の歌は春歌下の最後にと、差し込みやすい位置にあるが、この貫之の歌は春歌下の中ほどに置かれている。だから別にどうということはないのだが、七年というのは、やはりかなりの年月である。その置かれた位置を見てみると、次の大友黒主の歌の後ろである。

 
88   
   春雨の 降るは涙か  桜花   散るを惜しまぬ 人しなければ
     
        この黒主の歌の前の 86番87番の歌を見てみるとそれらも 「桜花」という言葉が三句目にある。つまり三句目「桜花」を三つ揃えた後に、この歌を置くことにより、この歌が一層引き立ち、かつ、少し離れた位置の貫之自身の初句 「桜花」の83番の歌が露払いの役目もして絶好の位置取りである。そして次に 「桜花」という言葉が出てくるのは 349番の業平の歌なので、結局この歌は春歌下の 「桜花」という言葉を使った歌の最後に置かれていることになる。

 
( 2001/11/09 )   
(改 2004/03/08 )   
 
前歌    戻る    次歌