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- なごり ・・・ 風が止んだ後もしばらく波が揺れていること (余波)
地上では風が吹いて桜が散った、それで終わり、けれど、空ではその風がおさまった後も花びらが浪のように漂っている、という歌。 「浪の花」ということを詠った歌の一覧は 250番の歌のページを参照。ここではそれを空に上げて、「花の浪」としている。
詞書にある「亭子院の歌合せ」は913年三月に宇多法皇が亭子院で催したもの。「新編 国歌大観 第五巻 」 (1987 角川書店 ISBN 4-04-020152-3 C3592) に収められている「亭子院歌合」によると、この歌は 「左」として、次の 「右」の歌に付け合わされ、かつこの 「右」の歌に負けている。
水底に 春やくるらむ みよしのの 吉野の川に かはづなくなり
歌の横には 「みぎかつ、うちの御うたいかでかはまけむ、となんのたまひける」とある。 「うちの御(=内の御)」とは醍醐天皇で、誰がのたまわったのかはっきりしないが 「右が勝って当然、天皇の歌がどうして負けるか」ということであろう。
それでも伊勢の作と言われる 「亭子院歌合」の前書きでは、全体の勝敗について 「右はかちたれども、内のおほんうたふたつをかちにておきたれば、右一まけたり」と書かれている。つまり、この 「右」の歌を含めて二つの醍醐天皇の歌は一応勝ちにしたけれども、それを差し引くと右が一つ負けだ、ということである。この勝ち負けの数は現存の「亭子院歌合」とは合わず、もう一つの 「御」と記された歌は「左方」にあるので、どうも整合性に難があるが、「右方」がこの貫之の歌に対して、天皇の歌というワイルド・カードを切ってきたと見ると面白いかもしれない。
ちなみに「亭子院歌合」では二つの歌の作者名にどちらも 「貫之」と記されているが、この「右」の歌は「続後撰和歌集」の150番に「亭子院歌合に」という詞書で醍醐天皇の歌として採られている。
また、この歌合せは913年で古今和歌集の仮名序・真名序にある古今和歌集の成立年、905年より先である。同じ歌合せから採られた 68番の伊勢の歌は春歌上の最後に、134番の凡河内躬恒の歌は春歌下の最後にと、差し込みやすい位置にあるが、この貫之の歌は春歌下の中ほどに置かれている。だから別にどうということはないのだが、七年というのは、やはりかなりの年月である。その置かれた位置を見てみると、次の大友黒主の歌の後ろである。
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