人のもとにまかれりける夜、きりぎりすの鳴きけるを聞きてよめる | 藤原忠房 | |||
196 |
|
自然の物に比べて自分の方がより優っている、大変なのだ、というパターンは、590番の坂上是則の「我が恋に くらぶの山の 桜花」という歌や、紀友則の 561番の「宵の間も はかなく見ゆる 夏虫に」という歌や次の歌などの恋歌に見ることができる。 |
563 |
|
|||||||||
忠房の歌は古今和歌集にあと三首採られていて、これらもこの 「きりぎりす」の歌と同じくクセのない優しい口調の歌で好感が持てる。 |
576 |
|
|||
914 |
|
|||
993 |
|
|||
また、この歌で気になる点は、詞書の 「人のもと」と "長き思ひ" の意味である。 「人のもと」とは女性の家なのか、知人の家なのか。そこで感じている 「長き思ひ」とは何なのか。一般的に考えれば 「人」は女性で、「長き思ひ」はずっと恋慕っているが叶えられない気持ちということだろうが、それではどうも歌の雰囲気と合わないような気がする。 本居宣長「古今和歌集遠鏡」では、「人」をその家の主(あるじ)とした上で 「きりぎりす」をその人に見立て、「思ひ」を心労として「御亭主アノキリ/゛\スト同ジヨウニアマリ泣カシヤルナイ 心苦ガ多ウテ秋ノ夜ノ長イノガ メイワクナコトハ貴様ヨリ 拙者ハサナホノコトヂヤワイ」と見ているが、これもまた微妙なところである。 「きりぎりす」を詠った歌の一覧は 244番の歌のページを、「いたく」という言葉が使われている歌の一覧は 893番の歌のページを参照。 情報が足りないのでどのような憶測も受け入れられる歌だが、ここでは原点に戻って、あまり色を付けず、秋の夜の侘しさをそのまま詠ったものと見ておきたい。 |
( 2001/09/12 ) (改 2004/02/26 ) |
前歌 戻る 次歌 |