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       かは原の左のおほいまうちぎみの身まかりてののち、かの家にまかりてありけるに、塩釜といふ所のさまをつくれりけるを見てよめる 紀貫之  
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   君まさで  煙絶えにし  塩釜の  うらさびしくも  見え渡るかな
          
     
  • まさで ・・・ いらっしゃらなくなって (ます:「有り」の尊敬語)
  • うらさびしく ・・・ 心寂しく
  詞書の意味は「河原左大臣が亡くなって後、その家に行くことがあって、その庭を見ると塩釜の様子が模して造られていたので、それを見て詠んだ」歌ということ。 「かは原の左のおほいまうちぎみ」とは河原左大臣と呼ばれた源融(とおる)のこと。その没年は 895年のことで、848番の近院右大臣(=源能有(よしあり))の歌では、その直後の源融の家の様子が詠われている。源融の歌は古今和歌集に 724番と 873番の二首が採られている。

  「河原院」の源融は、831番や 349番で詠われている 「堀河院」の藤原基経(堀川のおほきおほいまうちぎみ)と少しまぎらわしい。

  歌の意味は、
あなたがいらっしゃらなくなって煙の絶えた塩釜の浦は、心寂しく広がる景色です、ということ。 「塩釜(の浦)」は現在の宮城県の松島湾・塩釜港で、1088番と 1089番の「みちのくうた」で詠われている。

  「塩釜の浦」の 「浦」と 「うらさびし」の 「うら」を掛けている。 "煙絶えにし" の 「煙」は、708番の読人知らずの歌にある「塩やく煙 風をいたみ」と同じで塩を焼く煙のこと。その庭で煙を立たせることは一つの情景としてわびしさの演出だったと思われるが、それが今主を失って煙がたなびくこともない、ということが、寂しさを一層際立たせているという歌であると思われる。

 
( 2001/10/15 )   
(改 2004/02/24 )   
 
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