堀川のおほきおほいまうちぎみ、身まかりにける時に、深草の山にをさめてけるのちによみける | 僧都勝延 | |||
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歌の意味は、現世に残された私たちは、その亡骸があることでかろうじて心をなぐさめていたが、こうして弔いが終わった今、そのよりどころとなるものはなくなってしまった。静かな深草の山よ、せめて煙を立たせて何かがそこにまだあるということを知らせてほしい、ということ。 この 「煙」は詞書に 「をさめてけるのちに」とあるので(たとえ火葬にされたとしても)火葬の煙ではなく、富士山の煙のようなイメージで言っているのであろう。 「だに」という言葉を使った歌の一覧については 48番の歌のページを参照。 詞書にある「堀川のおほきおほいまうちぎみ」は太政大臣・藤原基経で 891年一月没。 349番の業平の歌の詞書にも 「堀川のおほいまうちぎみの四十の賀、九条の家にてしける時によめる」として出てくる。基経の住んだ 「堀河院」は現在の京都府京都市中京区二条油小路町あたり。 基経は藤原長良(ながら)の三男で、叔父である藤原良房の養子となった。この歌の一つ前に置かれている次の歌は良房が 872年に亡くなった時の素性法師の歌である。 |
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ここで、良房と基経を並べて見ると次の通り。その住居から、良房は白河大臣(おとど)・染殿大臣とも呼ばれ、基経は堀河大臣とも呼ばれた。 |
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基経の子の藤原時平は、基経が亡くなった年(891年)の十一月、二十一歳で従三位・参議になる。菅原道真は同年二月に蔵人頭となるが、まだ正五位下で四十七歳。この基経の死で時平、道真、宇多天皇のパワーゲームの十年は始まったとも言えるだろう。 僧都勝延(そうづ・しょうえん)については詳しいことはわかっておらず、古今和歌集にもこの一首だけしか採られていない。827年の生まれであるので、当時は六十五歳ということになる。 901年没。僧都は僧正の一つ下の位である。 「空蝉」は 「殻」とつないでいるので、「蝉−抜け殻」を掛けているのは間違いないと思われるが、それをあまり強く見ると 「昭宣公(=基経の追号)はセミ扱いか」ということになるので、意味的には薄く見ておいた方がよさそうである。 「空蝉」という言葉を使った歌の一覧は 73番の歌のページを参照。 「深草の山」は、現在の京都府京都市伏見区深草宝塔山町あたりの七面山のことかと思われる。 846番と 847番で詠われている 「深草のみかど」(=仁明天皇:810-850)の御陵がその南にある。藤原氏の墓地として知られている、いわゆる 「宇治陵」(京都府宇治市木幡)とは、少し場所が離れている。 この歌が "なぐさめつ" であるのに対して、雑歌上にある次の読人知らずの 「姥捨山」の歌は、「なぐさめかねつ」となっている。 「深草の山−煙」/「更級の姥捨山−月」の対比としても見ることができる。 |
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( 2001/10/17 ) (改 2004/02/24 ) |
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