うつろへる花を見てよめる | 凡河内躬恒 | |||
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盛りが過ぎた花を見ていると、自分の心までもが心変わりしまった、でも顔には出さないでおこう、知られるとまずいから、という歌。 92番に素性法師の「花の木も 今はほり植ゑじ」という歌がある。「うつろふ色に 人ならひけり」と詠うその歌は、「うつろへる花を見てよめる」という詞書を持つこの躬恒の歌と並べてみると、女性の立場(素性):男性の立場(躬恒)という対になっているようで面白い。 また、「うつろへる花を見てよめる」という詞書で、歌には "うつりける" とあるので、この歌の場合 「うつろふ」と 「うつる」は同じことを指しているものと考えられ、 "色にはいでじ" (=表には出すまい)とあるので、詞書の方の花が 「うつろふ」も 「散る」よりは 「色褪せる」意味が強いと思われる。 「うつろふ」という言葉が歌の中で使われている一覧については、45番の歌のページを参照。 一方、「うつる」には 876番の友則の歌で使われている「移り香」のように本来の「移る(移動する)」という意味で使われることもあるが、「色が変わる/散る」という「うつろふ」と同じ意味で使われている歌として次のようなものがある。 |
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また同じ躬恒の歌で、秋歌上にある219番を見ると、「古枝に咲ける 花見れば」元の心は忘れない、とある。春に萎む(あるいは散る)花を見れば心が萎え、秋に古い枝に新しく咲く花を見れば新鮮に思うという、それぞれの花に寄せる思いが、その場の雰囲気、つまり季節感と共にうまく詠まれているため、これらの歌は春歌/秋歌に分類されているのであろう。 さらにこの歌は 52番の藤原良房(=前太政大臣)の「花をし見れば 物思ひもなし」の逆を言っているものとして見ることもできる。 「色に出づ」という言葉は、顔色に出すということで、花や色彩のあるものに合わせやすいため、この歌を含め十首に使われている。その中でも"色にはいでじ" と使っている他の歌としては、661番の友則の「紅の 色にはいでじ」や、次の読人知らずの歌がある。 |
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「さへに」という言葉を使った歌の一覧は 280番の歌のページを参照。 |
( 2001/10/29 ) (改 2004/02/17 ) |
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