題しらず | 小野小町 | |||
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花の色はうつろってしまった、ただいたずらに、この身が世を過ごす長雨に物思いにふけっている間に、という歌。この歌が広く親しまれている理由は、百人一首にも採られている伝説の美女の歌という以外に、歌の持つ柔らかなイメージにあるように思われる。 "ながめ" が 「眺め」と 「長雨(ながめ)」の掛詞であると言われなくとも、また 「"ながめせしま" ってどんな島?」と思ったとしても、漠然と意味が伝わる。また言葉の音としては、"うつりにけりな" の「な」は女性的な響きを持ち、 "わがみよにふる" の 「み」と 「よ」はなだらかにつながり、 "ながめせしまに" は軽やかなリズムを生み出している。 それに加えて、この歌の重要性は歌の発生する場を追体験しやすい点にある。それぞれの言葉は浮かんだ時点では適度にばらばらで、近くの言葉とは結びついているが、歌になるまでにはならない。 「花の色」−「うつる」、「眺め」ー「長雨」−「降る」−「経る」がそのあたりである。それが 「世にふる」→「わが身世にふる」となるあたりから凝固しはじめ、「わが身」は 「花」と 「眺め」を引きつけ、「世にふる」が 「いたづらに」を引き出して、さらに 「うつる」に手を伸ばした時点で、歌となるべきすべての要素が揃う。後はそれらが前後しながら次第にそれぞれの位置を確立し、ニュルっと歌が生まれ出る。 |
古今和歌集の仮名序の中では、次の二つの歌を指して "歌の父母のやう" としている。 難波津に 咲くやこの花 冬こもり 今は春辺と 咲くやこの花 安積山 かげさへ見ゆる 山の井の 浅くは人を 思ふものかは それに倣って古今和歌集の中に "歌の父母" をもとめるならば、この小野小町の歌は 「歌の母」と呼ばれるにふさわしい。一方 「歌の父」はと言えば、次の在原業平の歌としたい。どちらも歌の中に字余りを持っていることも特徴で、その余り具合が歌の 「詠み」の大切さを教えている。 |
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"うつりにけりな" は 「うつり+に+けり+な」で、「うつる(移る)」の連用形+完了の助動詞「ぬ」の連用形+過去の回想を表す助動詞「けり」の終止形+詠嘆の終助詞「な」。 「うつる」はこの歌の場合、"花の色は" とあるので、「色が変わる・色褪せる」ということである。 「うつる」という言葉を使った歌の一覧は 104番の歌のページを参照。また同じ意味での 「うつろふ」という言葉を使った歌の一覧については 45番の歌のページを参照。 「ながめ/ながむ」という言葉を使った歌には次のようなものがある。 |
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"わが身世にふる" の 「ふる」を、上二段活用の 「古る」の終止形と見るか、下二段活用の「経(ふ)」の連体形と見るかは微妙なところである。 「眺めせし間に−いたづらに−わが身世にふる」と見るならば終止形、「ながめ」に 「長雨」がありその関係で 「降る」の掛詞を強く見るならば、「ふる−ながめ」ということで連体形というところか。同じ小町の歌には 782番に「我が身時雨に ふりぬれば」というものがあり、そちらは 「降る−古る」の掛詞になっていて、その点からはこの歌も終止形とも考えられるが、「例解 古語辞典 第三版」 (1993 三省堂 ISBN4-385-13327-1)の付録の百人一首の解説や、「古今和歌集の解釈と文法」 (1984 金田一京助・橘誠 明治書院)などを見ると、「経」の連体形と解釈されている。ちなみに 「古る」の連体形は 「ふるる」、「経」の終止形は 「ふ」。 「経」を使った歌の一覧については 596番の歌のページを、「古る」を使った歌の一覧については 248番の歌のページを参照。 また、この歌は藤原定家が八代集からそれぞれ十首づつ選んで編んだ 「八代集秀逸」の中で選ばれているものの一つである。その他の九首については 365番の歌のページを参照。 |
( 2001/11/20 ) (改 2004/02/25 ) |
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