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"ゐで" は今の京都府綴喜(つづき)郡井手町で、その西側に木津川があり、中部に株山から木津川に注ぐ玉川が流れている。この歌の左注に「このうたは、ある人のいはく、橘の清友がうたなり」とある。橘清友(758-789)は井手に別荘をかまえた橘諸兄の孫。
蛙の声が聞こえる井手の里の山吹は散ってしまった、花の盛りに見たかったものを、という歌で、内容としてはシンプルだがその調べは柔らかい。同じ 「花のさかり」という言葉を使った 97番の読人知らず の「春ごとに 花のさかりは ありなめど」という歌とも響き合うような感じもする。
「かはづ」「ゐで」という言葉で水辺を暗示させている点も面白い。ちなみに仮名序のはじめの方で「花に鳴くうぐひす、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」という文章があるが、古今和歌集の中で 「かはづ」が出てくるのはこの歌だけである (真名序ではその部分は「春の鶯の花中に囀(さへづ)り、秋の蝉の樹上に吟(ぎん)ずるがごときは、曲折無しと雖(いへど)も、各(おのおの)歌謡を発(いだ)す」と春と秋の対を出すために 「ウグイス:セミ」となっている)。
また、契沖「古今余材抄」などに、この歌の類似歌として次の万葉集・巻八1492の歌が上げられている。確かに後半の言葉遣いはそっくりであるが、「あーあ、実になっちゃった」という感じは、この 「ゐでのかはづ」の歌とかなり雰囲気が違うように思われる。
君が家の 花橘は なりにけり 花のある時に 逢はましものを
"あはましものを" の「まし」は反実仮想の助動詞「まし」の連体形。 「ものを」は本来 「もの+を」だが 「ものを」で一つの助詞とみなされる。 「未然形+ましものを」というかたちを使っている歌には次のようなものがある。
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