朱雀院の女郎花あはせの時に、女郎花といふ五文字を句のかしらにおきてよめる | 紀貫之 | |||
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先行する友則の二つの女郎花の歌( 437番と 438番)からのつながりとも言えるが、その二つ自体があまり出来がよいものとは思われないので、まるでこの歌の前振りのようにしか思えない。秋歌下に紛れ込ませてもよさそうなものだが、撰者たちの感覚では、これは物名の部類であるということだったのだろう。 422番の藤原敏行の 「うぐひす」、453番の真静法師の 「わらび」の二つの歌とはまた違った意味で、この歌は物名の部の中の例外と考えられる。 歌の意味は、小倉山の峰を均すほど行き来して鳴く鹿が過ごしてきただろう秋を知る人はいない、ということ。 「そうして秋を過ごしてきた鹿の気持ちを知る人はいない」という意味である。 歌の中では 「たちならし」という言葉が気になる。この歌では 「鳴く」とあるので 「たち鳴らし」のように見えるがそうではなく、一般的には上記のように 「たち均し」と解釈されている。 1094番の 「さがみうた」にも 「こよろぎの 磯たちならし」とあり、「峰」も 「磯」も足で平らに均すには固すぎるような気もするが、一種の慣用句としておくのが妥当か。 「たち習し」であるという説もあるが、それだとじっと立っているようなイメージがあるので、「頻繁に行き来する」という意味が欲しいために 「たち均し」の方の説が優勢になったものであろう。 貫之には 「をぐら山−鹿−声−秋」と似た言葉を使った次の歌があり、この歌は、それを元にしているように見えるが作成時期の前後はわからない。 「鹿」を詠った歌の一覧は 214番の歌のページを参照。 |
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さて、詞書にある 「朱雀院の女郎花あはせ」とは宇多上皇が朱雀院で催した歌合であり、その時の女郎花の歌が古今和歌集の秋歌上に七つ集められている。そのうち五つが古今和歌集の撰者三人のものである。貫之の歌は次の一つ。 |
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躬恒の歌は次の二つ。 |
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忠岑の歌は次の二つ。 |
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ただし、古今和歌集で 「朱雀院の女郎花あはせ」の時の歌とされているもののうち、現存する 「亭子院女郎花合」に載っているものは三首のみ(上記の躬恒の 234番、忠岑の 235番、そして藤原時平の 230番)である。この八首中三首という数は微妙であるが、一応 「朱雀院の女郎花あはせ」=「亭子院女郎花合」と見てよさそうである。そして 「亭子院女郎花合」が昌泰元年(=898年)という記を持つので、「朱雀院の女郎花あはせ」は898年の秋に催されたものとされる(宇多上皇=朱雀院=亭子院)。 この貫之の 「をぐら山 」も「亭子院女郎花合」に載っていない歌だが、「亭子院女郎花合」には 「これはあはせぬうたども」という前書きがあって、二種類の言葉遊びの歌が記録されている。一つは 「をみなへしといふことを句のかみしもにてよめる」歌で、 折る花を むなしくなさむ 名を惜しな てふにもなして しひやとめまし 折る人を みなうらめしみ なげくかな 照る日にあてて しもにおかせじ というようなものである。 「をみなてし」となっているのは 「へ」ではじまり 「へ」で終わるものは難しかったからか、発音が似ていたからか。もう一つは 「これはかみのかぎりにすゑたる」というタイプのもので、この貫之の歌と同じ趣向である。 尾の上は みな朽ちにけり なにもせで へしほどをだに 知らずぞありける をぜき山 みちふみまがひ なか空に へむやその秋の 知らぬ山辺に 折り持ちて 見し花ゆゑに なごりなく てまさへまがひ しみつきにけり これも三つ目が 「をみなてし」となっている。これらと比較すると貫之の 「をぐら山」の歌がだいぶ引き立って見える。恐らく古今和歌集で選ばれた他の物名の歌のうしろにも、こうした感じの歌が大量にあったのだろう。 秋歌上には十三、そして雑体には四つの女郎花の歌があるが、それらはすべて初句か三句目で 「女郎花」という名詞単体で使われている(「亭子院女郎花合」の中でも五十一首中、例外は一つしかない)。好まれた花とはいえ、古今和歌集の中に限っても、すでにマンネリ化していると言えるだろう。折句や物名(隠し題)は、その流れから外れてみたいという試みとも感じられる。 |
( 2001/08/07 ) (改 2004/02/26 ) |
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