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泊まっていたタチバナの花がまだ枯れてもいないのに何故ホトトギスの声が聞こえなくなったのか、という歌で141番の「花橘に 宿はからなむ」という歌の延長上にある。
この歌の夏歌の中での位置について、賀茂真淵「古今和歌集打聴」では「上下の歌の次序(ついで)によるに末に声の絶ぬるにあらず鳴べき時に絶てなかぬ也」(=前後の歌の配列からすると、これは時期が過ぎてとうとうホトトギスの声が聞こえなくなったということではなく、まだ鳴くべき時期なのにさっぱり声が聞こえなくなったということである)と述べている。確かに "花橘も 枯れなくに" という部分からは、そのような感じも受ける。 「〜なくに」という言葉を使った歌の一覧は 19番の歌のページを参照。
歌の順から言えば、先に 151番の「今さらに 山へかへるな 郭公」という歌も出ているが、それについても真淵は「山へ帰りてまたこぬ時ならず常に山よりゆきかへりつゝするを一たび出て更にかへらんよりはたゞ我やどに鳴てのみあれと云也仍て(よって)今更といへり」(=これはホトトギスが山へ帰ってもう来なくなる時の歌ではない。山と里とを往復するのを、一回帰ってわざわざまた来るよりは我が宿にずっと留まって鳴けということである。よって今更といっているのである。)と解釈している。ただこちらは 「声のかぎりは 我が宿に鳴け」というニュアンスとずれているような気がし、無理があるように見える。
"宿りせし" ではじまる他の歌としては、240番に貫之の「宿りせし 人の形見か 藤ばかま」という歌がある。また、「など」は 「などか」というかたちで使われることも多く、古今和歌集の中では次のような歌で使われている。
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