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詞書は「二条の后(=藤原高子)が東宮の御息所(=皇太子の母)と呼ばれていた頃、一月三日に康秀を御前に召してお言葉をかけている時に、日が照りながら雪が降っていることを詠ませた」歌ということ。後に陽成天皇となる貞明親王が皇太子であったのは、869年から 876年の間。康秀には他にも二条の后の前で詠んだ「花の木に あらざらめども 咲きにけり」という 445番の物名の歌がある。
文屋康秀は生没年不詳。 860年刑部中判事、877年山城大掾(たいじょう)、879年縫殿助(ぬいどののすけ:正六位下相当)。
春の日の光に当たる私ですが、頭が雪となるのがわびしいことです、という、春の太陽の光を二条の后の恵みになぞらえた、おべんちゃらの道化の歌のようだが、やはり機会があるごとに身の不遇を嘆き、取り立ててもらおうとするのは当然のことであったのだろう。詠ませる側もそれをある程度予測していて、それプラスアルファの要素で、仮名序にあるように 「さかしおろかなりと」判断していたと思われる。そういう観点から見ると、この歌はへりくだりにそれほどの臭みがなく、出された題に即していて、わかりやすく素直な歌であるということができる。
"かしら" が白くなるということについては、1003番の忠岑の長歌にも「越の国なる 白山の かしらは白く なりぬとも」というフレーズがあり、460番の貫之の歌に「鏡のかげに 降れる白雪」というものもある。また、雪ではなく頭部に霜が置くという歌としては、次の読人知らずの恋歌がある。
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